社会で人に会うと色々な人と知り合う事になって、なにかと参考になったり影響受けます。
尊敬したり、感心したりした人の事を無条件に肯定するようになったりします。
でも、それではただの信者になっちゃってるだけなので適切な評価をちゃんとしたうえで肯定しなければ良くないと私は考えます。
「好き (嫌い) なんだ。なんでかっていうと…」をちゃんと人を納得できる形で説明できないといけないです。
尊敬されてる側、好かれてる側の人だって信者的な人は鬱陶しくなりますし、適切に評価してくれた方が一歩成長できるから助かるんではないでしょうか。
(でもその一方で、評価のための指摘について、「素直に受け入れられるかどうか?」という壁がありますけど。)
尊敬している側の人は、周りが見えなくなってきて、その対象である神様だけがすべてになってきます。でも周りの人って周囲にはたくさんいるので、無条件に信奉してるだけの人の事は、だんだんあきれてきます。
教祖様からのご寵愛を欲するがあまりに、教祖様が他の事に関心を持つと、妬みや嫉妬の感情が生まれてきます。
2012年の頭に「嫉妬や妬みについて気づきがあった」と書きました。この考えは今でも変わらないですが、恥ずかしながらいまだ自分でも嫉妬・妬みについてコントロールできてません。
ここで自分の妬み感情がいかに醜いものか書き綴ろうと思いましたが、やっぱりやめて消しました。
妬むってことは人に依存しているということになります。それでは自分を解き放って能力を発揮できません。
「ちゃんと評価しないと良くない」って話から、また一年前の嫉妬の話題に戻ってしまいましたが、バスが遅れてて退屈だったのでダラダラと書いみました。